試験に合格、でも落第? 医学部の不思議

2007年6月、フランス語圏の医学部1年の全試験に合格したにもかかわらず、2年目進級を拒否された学生は約80人。理由は“numerus clausus”と呼ばれる人数制限制度。フランス語共同体が医師数を制限するために97年から施行している制度で、医学部1年生に何人在籍していようが、2年生に進める学生数はルーヴァン・カトリック大(UCL)110人、ブリュッセル自由大(ULB)97人、ナミュールノートルダム大(NDLP)96人、リエージュ大(ULg)90人、モンス大(UMH)27人までと決められている。07年度の枠に漏れた80人に与えられた選択肢は、医学をあきらめ薬学や歯学に移るか、留年して再度チャレンジするか、他の場所(フラマン語圏や外国)で入学し直すこと。
裁判に訴えた学生もいたが、要求は通らず、高等裁判所への控訴と欧州共同体への陳情を準備しているという。

2007年10月、フランス語共同体は“numerus clausus”の見直し計画を発表した。教育担当大臣Maria Arena氏(当時)は、09年度からの施行を目標に代替案をまとめて連邦の承認を仰ぐと言明。今年2/13には早速フランス語共同体の各大学医学部長会が、“numerus clausus”を廃止し、全大学共通の医学部入学試験を行うという案を公表。これはフラマン語共同体の実施例がモデルだが、違いは後者が受験回数を無制限としているのに対し、フランス語圏では4回までに限定するという。フランスで落第した学生が無制限に流入してくるのを抑えるための策、とルーヴァンカトリック大学医学部のDidier Lambert部長は説明する。

“numerus clausus”はベルギーだけの制度ではなく、フランスやオランダでも採用されているシステムだ。フランスでは医学部1年生は理論だけを勉強し、年度末の試験で国の定めた人数枠まで徹底的に振り落とされる。例を挙げると、昨年秋にパリ第七大学医学部に入学したのは約2,100人だが、今年6月の学年末試験を経て秋から2年生に進級できる人数はわずか350という狭き門だという。仏政府は今年から向こう5年間の制限数を凍結することも発表している。

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2008年1月、“numerus clausus”施行10年を機に連邦医療政策研究所(KCE)が国内の医師事情についての実態調査を行った。それによると、現在のベルギー医師免許保持者のうち、実際に診療活動に従事しているのは65%。そしてそのうち半数が50歳以上だった。しかも数年以内にリタイアを予定している医師の数も多い。同研究所は調査結果を受け、“numerus clausus”の人数枠を検討する際に担当機関の依拠するデータが十分ではなかったとの懸念を表明した。医師免許総数だけではなく、労働時間、グループ医療の実態、医師免許は持っていても診療活動をしていないケース(研究職や教職、医療関係以外の職業従事、休職、専業主婦など)、免許保持者の外国への転出、外国人医師の流入、そして医学技術や治療方法の変遷などについてももっと幅広く考慮なされるべきではなかったのか、という。

10年前、医師供給を調整するために導入されたはずの“numerus clausus”。現実には、医師の不足にあえぐ農村地域の実態や、医師不足を解消するため、ベルギーと免許取得条件の違う外国人医師を雇用している医療施設のケースなど、医師不足を物語る事実すら報道されている。09年度からの新システムが成功するかどうかはまだわからないが、政府が早急に取り組まなければならない問題なのは確かだ。

愛と憎しみの長く深い関係『コンゴ』

congo


...遠くて近い、切っても切れない、

愛と憎しみの長く深い関係 ...

2008年5月24日、コンゴ民主共和国 政府は駐ベルギー大使を召 還、同時に在アントワープ公 使館を閉鎖すると発表した。 その2日後、今度はベルギー政 府に対し、コンゴ東部と南東 部の2つの公使館を閉鎖するよ うに要請した。
コンゴ政府の姿勢を硬くさ せているのは18日のカーレ ル・デ・グフトベルギー外相 のテレビ発言。「年間2億ユー ロ近くを(コンゴ民主共和国 に)援助しているのだから内 政に関心を寄せる権利がある のは当然だが、(過去の植民 地支配関係から)道徳的義務感もある」とぶったのだ。

「我々は独立国である。他国 が我々の内政に関して道徳的 義務感を持つ所以は一切な い!」とキンシャサ政府は大剣幕。両国の関係にはかつて ない険悪ムードが漂ってい る。
ベルギーとコンゴ。首都キ ンシャサとブリュッセルの距 離は6,171km。旅客機で飛ぶ と9時間半。遠いアフリカ大陸 中央のコンゴとベルギーとの 関係は、それでも切っても切 れない深いものだ。

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1877年、隣国オランダの植 民地活動に刺激され、アフリ カ進出を夢見ていたベルギー国王レオポルド2 世 (1835-1909)は、いわゆる “ブラック・アフリカ”地帯 を物色の末、天然資源の豊富 な未開地、コンゴを標的に定 めた。

国王に派遣された著名な探 険家ヘンリー・スタンレー (1841-1904)は「コンゴ国際 協会」の名の下に、着々と原 住部族を配下に治める。1885 年、西欧諸国からコンゴ統治 を認められたレオポルド2世 は、以後23年間、コンゴを 『私有地』とし、豊かな天然 資源から得られる暴利をむさ ぼった。

1908年、その暴虐な搾取に 対する西欧諸国の批判がかわ しきれなくなったレオポルド2 世はコンゴの支配権をベル ギー政府に移譲。「ベルギー 領コンゴ」という名の植民地 が誕生する。

第二次大戦前後から勃興し たアフリカ植民地独立の気運 に乗ってコンゴがベルギーから独立したのはそれから半世 紀余りを経た1960年。10年近く続いた紆余曲折の混乱と闘争で、国も人も疲弊し尽くし た末の「独立宣言」だった。

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2回の世界大戦から経済的打 撃をほとんど受けずに復興し た国ベルギーの陰に、植民地 コンゴがあったのは想像に難 くない。アフリカ大陸でスー ダン、アルジェリアに次ぐ3番目に広大な国土を持つコンゴ には、ダイヤモンド、銅、亜 鉛などの豊かな鉱物資源と、肥沃な大地から採れるコー ヒー、砂糖、椰子油、ゴムな どがふんだんにある。安価で豊富な一次産物と人的労働力 を得た小国ベルギーの今日の 繁栄は、豊かな植民地からの 搾取の賜物だったといっても 過言ではあるまい。

しかし、植民地時代のコン ゴ統治について、『憎しみ』 だけが歴史に残ったわけでは ない。「ベルギー領コンゴ」 の半世紀の間には、金銭欲だ けではなく、冒険や自由、慈 愛や友好のために遥か南の地 へ移り住んだベルギー人も多 かった。道路や鉄道の建設、 教育や医療制度の整備など、 彼の地の開発のために力を尽 くし、命を捧げた人々がいた のも確かだ。

部族数250、方言数700以上 を抱えて独立した新生『コン ゴ民主共和国』は1965年、 ジョゼフ・モブツ(1930-97) による軍のクーデターで「ザ イール共和国」という名の独 裁政権時代に入る。以後32年 間私腹を肥やし続けたモブツ 大統領が失脚したのが97年。

しかし、その後政権についた ロラン・カビラ (1939-2001)は就任から4年後 に反対勢力により暗殺される。 現在の大統領はその長男のジョ ゼフ・カビラ(1967-)。国連 やベルギーを始めとする諸外 国も政情安定化に期待をかけているのだが、誰がまいた種 か、その混乱はまだ簡単に収 束しそうもない。「コンゴ民 主共和国」は現在、世界で最 も貧しい国のひとつに数えら れている…。

コンゴ民主共和国
人口:推計6,780万人(12年)
国土:235万平方km
首都:キンシャサ
探検家スタンレーが1881年に開いた街で当時の名はレオポ
ルドヴィル。ナイル川に次ぐアフリカ第2の大河川、コンゴ
川に沿って広がる。対岸は旧フランス領のコンゴ共和国首
都ブラザヴィル。

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